ペルーで事件簿2 -7ページ目

★カトリーナとペルー人

結局バス代は特にあがってませんでしたね。フツーです。

まあ、あげようものなら市民が黙っていませんが。だって関係ないもの、バス会社の事情なんて。

僕もまだまだ見方が甘かったです。ちっ、いつもの有限不実行かよ…。


ただペルシンからアレナレスまでハビエルプラドを通っていったときのクーステル(中型バス)の

コブラドール(料金徴収人)は最初から


「はいはい、バス代バス代、1ソル20ねー」


なんて言ってました。もちろん


「そんな小銭ないわよ」


というおばちゃんの反応は予想どうり見受けられ、コブラドールも


「いや、新聞にも書いてますよ、料金上がるって」


と、予想どうりの反応をしておりました。ちなみに僕は短距離だったので1ソルです。

他のクーステルやコンビではそういうやり取りはありませんでした。

他のペルー人に聞いてもいつもどうりだったと。


「2ソルもとったらタダじゃおかないわよ!」


といきまいてましたが。

まあ、微妙なところでちょっと上がり気味、しかしバス会社やコブラドールによる、上がっても20センティモ。

というのが今回の変化です。





さて、毎日ペルー新聞をにぎわすアメリカのハリケーンカトリーナですが、

9月4日現在、在アメリカペルー人の中でハリケーン被害を受けたのは合計40人だと

ペルー領事館により公式に発表されました。

なんでもハリケーン被害のあった地域に住んでいるペルー人は数千人に上るそうなんですが


「大部分のペルー人が、カトリーナがニューオリンズを破壊する前に、必要な処置をとりながら、

 いいタイミングで非難をしたようだ」


とのことです。非難した40人も皆無事友達の家に避難できたようで、特に大きな問題はないそうです。

ただその40人の中の一人Hugo Ponteだけが入院しています。


また、領事館からペルー人被害者に「ペルーの家族と連絡が取れるように」と

テレフォンカードがプレゼントされました。

ペルーにいる人で、アメリカにいるペルー人の家族の安否が知りたい方は


(713)3559517 または (713)3559438 まで。







un hombre acostado en su moto



★えっ、僕落札?

ペルーにいても関係なくアダルトサイトの迷惑メールって届くもんですね。

どこからか僕のアドレス仕入れてきてね。


見てませんよ、一応。

出会い系とかに顔を出しているとか言うのも一切ないですし

顔を知って信頼できる人にしかメルアドは言っていません。


そしてこの前来た迷惑メール



「おめでとうございます!」


今回あなたは主婦の○△□さんにより154万円で落札されました。

詳しい情報は以下のアドレスへ…



まあそういうやつはヤフーに迷惑メール報告すればいいんだけど、

今日来た迷惑メールはなんと、

送信者アドレスが僕のアドレス

しかもそれが迷惑メールフォルダに入っていたということは、

既に僕の名前で他の人にも迷惑メールが行っている可能性もあるということです。


このHPをみているかたで僕からのメールが届いている方がいたら、


許してくださいね。



さあ、今日はもう一つのおまけ。

去年の夏の頃は、しょっちゅうリマの町を色々走ったり歩いたりということをやってました。


「今日はハビエル・プラド・エステを半分」とか、「今日はトゥパク・アマルからトマス・バジェを全部」とか。

大体毎日10kmで、最初の5kmは走り、後の5kmは歩く。

まったく、痩せませんでしたが。

たまたまカメラを持っていった日があって、その時撮った写真をUPします。

そのときのコースは、


「Av.Argentina全部」


です。


カジャオの国際港の税関前から始まり、プラサ・カスティージャ、エマンシパシオンを通り、

アバンカイで終わるというコース。

総延長12.45kmです。街の風景がたった10kmちょっとでどういうふうに変わるのか。

おたのしみください。

各写真はクリックで2倍くらいの大きさに拡大できます。



mapa  


まずこれが僕の地図ですね。

当時走り終わって家に帰った後、シャワーを浴びて、ベッドに寝転がり、

走ったところを黄色い蛍光ペンで塗りつぶすのが、僕の至福の喜びでした。


そしてそのときのスタート地点は…↓


ovalo garibaldi


こちらAvArgentinaの一番端、カジャオ国際港の税関のすぐ前にあるロータリーからスタートです。


標識がなかったので税関の前の警察にArgentinaの位置を確認しようとしたら


「どこにいくんだ」


―えっ、ちょっとセントロまで。


「ああ、じゃあバスがあるからそれに乗れ」


―いや、歩いていくんですけど。


「何を考えているんだ、ダメだ。バスで行け」


そんなやり取りがありました。全く相手にしませんでしたが。


写真は全てアングルとか悪いですが、

今回の散歩は全て危険地帯ですので、さっと取り出してさっと写真を撮って、

何食わぬ顔で走り出す、そういうことをやっていました。だからデッサンの悪さは御勘弁を。


zona residencial


最初はこういった住宅地域なんですね。むき出しのレンガのおうち。

そしてちょっと行くと…


zona de las fabricas


こんな工場地帯。

これがずっと続きます。


un paradero


↑ええ味出してませんかこのバス停



un descansito


↑って、度胸あるなおい!!!




そうして工場地帯が終わる頃、さあAlfonso Ugarteに着きますよ、Plaza Castillaが見えてきますよ。

そういうところに



por la mesa redonda



泥棒市、つまり盗んだ携帯や電化製品など売ってるところに着きます。

しょっちゅうここら辺はがさ入れがあって、海賊版のCDなどが没収されています。


さあ、もう中心部近く。AV.Argentinaも終わり、Av.Emancipacionへと入っていきます。


edificios modernos


近代的な建物も増えてきましたね。



jiron de la union



中のいい美容師のメリは昔ここ↑で人形を売っていました。

ヒロン・デ・ラ・ウニオン。


そしてゴール地点…


Av.Avancay



アバンカイ通りです。ここら辺で散髪すると5ソルくらいですよ。

ここについてから道端で売ってるチチャ・モラーダをグッと飲み干します。


おつかれさまでした…。



★奥さん、バス代が二倍になるんですって!

来週の月曜日からですってよ!

今まで1ソルのところが2ソルになるのよ!!!



atrapado con un policia



…リマ・カジャオ都市運輸企業本部の会長ダビ・キンタナが発表しました。


「べらぼうにディーゼル車が増えたことと車両検査が3月8日まで伸びた」


こと、及び石油の価格の上昇が大きく響いているそうです。

このことによりなんとバスの運転手とコブラドールは、給料が半分になったと。

具体的な数字を挙げるとね


今石油の料金は1バレルあたり43ドルから78ドルへと、ほぼ倍になりました。

今年年末には100ドルへと達するそうです。


dentro de un custer



で、代替手段としてのカミセアのガスですよ。


石油が現在1ガロン11.50ソルするのに比べガスはその半分以下

5.50ソルだそうです。

運輸業界も国の推進する20年以上使い古された古いディーゼル車から新しいガス車への転換に

賛成はしていて、実際にそのための各銀行からの援助も得ているんです。ですが、

先月の15日に行われるはずのガス車の入札が市の都合によってキャンセルされてしまい、

今でもいつ行われるかわからないという。


まああんだけしんどく働いて給料半分ってかわいそうだなと。

でも2ソルってでかいよね。


おそらく予想されるのは、1ソルの今でもしばしば見られるリマ市民とコブラドールのけんか。



「どこまで」


「ウニベルシタリアまで」


「1ソル20ですよ奥さん」


「何を言ってるの、あたしはいつも1ソルで行ってるの」


「窓に張ってる料金表を見てくださいよ」


「知らないわよ、じゃあどうして今まで1ソルだったのよ!」


「ガソリン代があがったんですよ」


「知らないわよ、あたしにも生活があるの。あなたたち横暴よ。私払わないわ」


「じゃあここで降りてください」


「こんなところで降りてどうするってのよ!降りないわ、降りないわよ」


「おい、お客さん降りるぞ」


…キキーッ!





こういういつものやり取りが三倍くらいに増えると予想されます。

お金のある日本人の皆さんはちゃんと払いましょうね。



nottekette!!!



★カトリーナ、ペルーへ届く

               Barabara cuzquena


アメリカ南部の今回のハリケーンで被害を受けたのはアメリカ人だけではありません。

ニューオリンズで働いていて行方が知れないBarabaraの例を見てアメリカで働くペルー人の

実情を見てみましょう、と今日はちょっと社会派なペルデジ。



30歳(俺も今年は…)のバルバラは、5人兄弟の三番目です。

母親が死んでからは5人ともある修道院で育ちます。

大きくなってから皆生まれ育ったクスコを出て、アレキパへと移住します。

決して生活が楽になったことはない、と姉妹のホセフィーナはいいます、

バルバラがアレキパのサン・アグスティン大学での観光の勉強をやめ、アメリカに行くまでは。


運良くアメリカで観光を勉強することができるチャンスを得たバルバラは去年の12月にアメリカへ渡ります。

しかし向こうへ着いてからは、やはり働いてお金をペルーにいる家族に送った方がいいと判断し、

あるレストランで働くことを決意します。



…ホセフィーナがハリケーンの数日前に電話したときは幸せそうな声でこう答えたそうです。



「いい人に出会ったの!私たち結婚するのよ!!!

 それにね、私がアメリカで働き続けられるよう援助もしてくれるって♪」



もちろん異国の地で働くことは決して彼女にとって楽ではありませんでしたが、

乗り越えようと決心してがんばったので最近はかなり楽になってきた、その矢先のこの惨事です。


在アメリカペルー大使ホルヘ・ラサロによると現在、800人から900人のペルー人が

被害のあったニューオリンズにいるそうですが、被害状況は一切つかめてないそうです。



さらに姉妹のホセフィーナは付け加えます。


「バルバラの送ったお金はいつも隠しておかないといけないの。

 だって私の主人に見つかったら飲み代に消えてしまうんだモノ」


…いや、それはハリケーンと関係ない家庭の事情でしょ(-_-) 。



しかし今回の災害により略奪の被害が深刻化してるようです。

TANSの飛行機事故で死亡現場の中から地元民が遺留品を略奪してるのにはちょっとだけ引きましたが

アメリカでもおんなじなんだね

収入が十倍くらいあって、教育設備が国中に行き届いててもおんなじなんだね


まあ、略奪の主犯がペルー人でないことを祈ってますが。

★重い軽口

これは誰にとっても、笑えない話。


ちょっと前置きですが、

個人的な意見として、犯罪人の中でも僕は、

強姦魔と言うのが何より許せません。


そして人気のないところをペルーの女性が通るとき、

何より恐れるのはそういったレイプ魔なのです。



2004年7月8日の話です。


そのタクシー運転手はチョリージョスであるご婦人を乗せ、

目的地のサン・イシドロ、Camino Realへと向かっておりました。

トレドの話、ウィスキーの話、世の中の嘘の話…

二人は快適におしゃべりを楽しんでいました。


車がVia Expresa に入ったとき、

そのご婦人はこういう質問をタクの運ちゃんに投げかけます。


「運転手さん、お客をレイプするタクシー運転手って、どう思うかしら?」


そして上機嫌の運転手はこう答えました。



「え?あなたの目の前にいるのがまさにそのレイプ魔運転手ですよ?」



…一瞬の沈黙、そしてご婦人


「止まりなさい」


「いえ、しかし今はバイパスにいるので止まれませんよ」


「あたしは止まれって言ったのよ」


「奥さん、冗談なんですよ」


振り返ると期限の悪い顔をしたご婦人。仕方なく

バイパスの側道で止まるタクシー。


「奥さん勘弁してください、冗談だったんですって!」


耳を貸さない御婦人は手をあげて車を止めようとしている。

そして一台の古びた車が止まった。タクシーではない。

ご婦人を乗せて発車する車、後を追うタクシー(なんでやねん


急に前を走っていた御婦人の乗っている車が側道で止まった。

タクシーも止まった。

止まった前の車から降りてきたのは、


制服を着た軍人


そりゃあご婦人が気を許して乗るわけだ。


「一体何があったんだ」


一部始終をありのままに説明する運転手。

黙って聞いている軍人。


説明を聞き終わると、軍人、道路側を向いて何かを待っている様子だ。

パトカーを、探しているんだろう。

30分ほど待ってもタクシーは来なかったので、

二台の車はバイパスからはずれる。そして、白バイ婦警さんに出くわす。


「一体何があったの」


また一から説明するタクシー運転手。

聞き終わると婦警は、パトカーを呼んだ。

しばらくしてパトカーが着いた。

軍人と婦警はタクシー運転手を指差して言った。



「あいつです」



「俺が…何だってんだ!」



再び一部始終を説明するタクシー運転手。

説明を聞き終わると、警察は、テレビ局・4チャンネルに無線で連絡をした。


「ビンゴ」とか「ボンバ」とその無線で言っているのを耳にしたが、よく彼は覚えていない。

気がつくと、後ろにはマスコミやら警察やらで10台ほどの車が。

マスコミは彼に聞く。


「一体何があったんですか」


どう話が転んだのだろう。全国的にこのスクープはこう報道されてしまった。



「私は11人の女性をレイプしました」



一応断っておきますが、これはねたではなく本当にあった話ですよ。



delante de la comisaria


…サン・アントニオの交番に着くと、既に底には黒だかりのマスコミが。

入り口付近で、ある男に一発殴られ、更に一発蹴られた。

後でそれがあの御婦人の亭主だとわかった。


検事に取調べを受け、法医に調べられ、そのあとも色々たらいまわしにされた後

検察局の留置所に入れられたのはその日の深夜12時30分であった。

周りを、たくさんの犯罪者達が取り囲んでいた。


その後も色々調べられたが、ちゃんとこちらの言い分を聞いてもらえている節がない。

だんだんと自分が惨めになる。


一番つらかったのは、最高裁判所の留置所に入れられたときだ。


周りにいた人間が詰め寄ってきて聞く。


「初めてかい?」

「誘拐か?」

「一体何をやったんだ?」


黙っていると、部屋の隅に新聞を持った男がいたのに気付いた。

その男は新聞に目をやって、そして、入ってきたばかりの新入りを見た。

新聞には、11人の女性を地獄に落としたレイプ魔の記事があった。


10人ほどの男たちが集まってきて、タクシー運転手は袋叩きにされた。

犯罪者の間でも、レイプ魔は一番憎まれる存在なのだ。


「おまけにお前は嘘つきだしな!」


新聞の報道には運転手の言い分は言い訳としてしか報道されていない。

事実その後サン・ホルヘの刑務所に入れられてからも、

誰にも自分が無罪だということを信じてもらえなかった。



新聞の記事には詳しく裁判の経緯が書かれてはいないが、

男は4ヶ月半で釈放された。


46歳のその男には、二人の息子がいて、何よりも家族を大事にする情に厚い男だそうだ。

そしてその家族も、どの囚人の家族より多く彼を訪ねたし

一刻も早く男が釈放されるように色々とポジャーダなどをして資金を集めた。

そのかいあって、男は早く刑務所から出られたのだ。


metida de la pata1



もちろん男は自分の軽率で趣味の悪いな冗談を深く後悔している。

しかしそれ以降彼は対人恐怖症になってしまい、心を閉ざし始めているという。

そして言う。


「この国は腐りきってる

 もし俺に金がもっとあったら

 俺は検察局に行くことすらなかっただろうよ」




んー、なんかこの人最後までずれてませんか。




★ペルー版エクソシスト?

今日はまず最初に新聞記事の訳をそのまま掲載。




日本のアニメに熱狂するあまり、タラポト市・モラレス区の二人の若者が奇妙な経験と行動をした。


二人の若者はドラ○ンボールZのヒーロー悟○と悪役べ○ータの魂にのっとられ、

そして戦いにおける二人の役割を引き受けたと主張する。


クリスティアン・ビルチェスとエディル・カスティージョ、14歳の二人はその登場人物が

一晩の間彼らの体をのっとり、それぞれヒーローと悪役を演じさせたという。


クリスティアンは誰かが彼の中に入っていくのを感じた。

「僕じゃなかったんだ。僕の魂を抜き取り、僕に飛んだり戦ったりすることを教えてるのを見たんだ」


一方エディルは

「べ○ータはサイ○人の王子で、自分が強いと思っていたんだけど、悟○には勝てなかったんだ」



要するにやんちゃなガキ二人がええとしこいてヒーローごっこしただけやん。

何でこんなことがいちいち記事になるんや。もっと詳細がいるやろ。

そう思ってインターネットで調べてみると…



selva de tarapoto




サン・マルティン州タラポト市、アマゾン地帯の真っ只中。

35度近くする気温の中無数の蚊が飛び交い、子供がはだしで走り回る。

蚊の数と同じほどの無数の迷信がいまだに残り、シャーマンが依然医者として働いている街。


そんなところに、二人の住むモラレス区はある。


幼少の頃から仲が良かった二人はドラ○ンボールの大ファンで、

お互いキャラクターグッズ購入に既に200ソル以上費やしているとか。



二週間前に起こったその事件を解説するのは地元では有名なシャーマンのエルベル・べレス・デ・ビジャ。

彼は数年前にシャーマンを辞め、プロテスタント派キリスト教に改宗したという経歴を持つ。


「最初に彼らを見たとき、すぐに『これは悪魔つきだな』とわかりましたね」


14日月曜日の朝のことだ。

外から帰ってきたエディルには、まるで生気がなかった。

二時間後に言葉を失い、時間と空間の概念を失う。

エディルは全くそのときの事をおぼえてなく、


「11日の金曜日、クリスティアンと出かけようとしたけど、両親が行かせてくれなかった」


ことまでしかおぼえてない。


エディルから一日遅れて、クリスティアンにも全く同じことが起こる。

しかし彼の場合はエディルより更に重症で、いくつかのことが記憶に残っていた。

それが夢かどうかは定かではないが。


「誰かがこういったんだ。『やあクリスティアン。おまえにパワーをあたえておいたぜ』

 僕は聞いたさ『誰?』って。そしたら『俺はべ○ータだ』だっていうんだ。

 だから無視して横になったのさ。そしたら自分の体が動き出し、浮かび始めているのを感じたんだ。

 だから目を開けたら、ベッドの下に落ちた。吐き気がして、めまいがした。

 妹は『目がうつろだった』って。そして僕は壁にぶつかり、倒れ、しばらくの間戦っていたんだ」


シャーマンのエルベルは不安がっている二人の両親を説得した。


「説明はかんたんです。それは彼らが見ていたものに原因があります。エディルがした事は

 悟○の魂を呼び出したこと、そしてその魂がエディルと協定を結んだ。クリスティアンは

 べ○ータと同様のことをしたということなんです」


エルベルは二人をドラ○ンボールの魔力から開放し、二人の家の近所にある全ての

ドラゴンボールと関係ある物の処分を命じたという。


さて、この事件には、ある一つの前触れがあった。それは、禁じられた遊び…


atardecer de tarapoco



三年前のある日、クリスティアンは自転車でヤシ林に差し掛かろうとしていた。

すると、暗がりから全身真っ黒な男が姿を現したのだ。黄色い目を持つ、真っ黒な男が。


そしてクリスティアンは思い出す。以前そこでエディルと共にOUIJA (西洋のこっくりさん)をしたことを。


「僕達は悟○とベ○ータを呼び出してしまったんだ」


現在、彼らはドラ○ンボールを見ることはもちろん、

悟○とベ○ータのキャラクターグッズを集めることも禁止されている。

モラレスの村人は、みな二人がドラ○ンボールの悪魔に乗り移られたと信じて疑わないという。

そして、その村では日本のアニメを見ることも一切禁止されてしまった。

シャーマンのエルベルは全ての悪魔を追い払った。

エディルの家族は彼に感謝し、カトリックからプロテスタントに改宗したとの事。




(しかし、日本のアニメ全てを禁止しなくても。「母を訪ねて三千里」くらいはいいんじゃないっすか?)

★聖ロサの祝日

お手伝いの女の子が、日に日にかわいく、日に日に頬が赤く染まっていく赤ちゃんを見て言った。


「この子ったらほんとにかわいい。まるでバラのようね!」


それがそのIsabel Flores De Olivaが、生涯ロサと呼ばれるきっかけとなった。



レオナルド・ハンセンという修道士が、彼女の容貌をこう表現しています。


「丸く、透き通って、穏やかな顔に、

金色で豊かな髪。

すっきりした額、アーチ状の細い眉。

 大きく黒い瞳。

すっとした鼻に、ピンクの頬。

小さい口、とがったあご…」


つまり…






Rosa con Rosas



こんな感じのかなりの美人だったわけです。


なんか慈悲にあふれた聖人なのにちょっと冷たい感じがしませんか?

違和感がありますか?


…でもね、彼女の人生を読み解いていくと、この冷たく見える表情に違和感を覚えなくなるのです。




1586年、父・Gaspar Floresと母Maria De Olivaの間に生まれた彼女は、

イサベル・フローレス・デ・オリーバという洗礼名を授かります。


白い透き通る肌にぽっと浮き立つピンクの頬から、周りからは常に「ロサ(バラ)」と呼ばれますが

彼女自身はそう呼ばれるのがいやだったそうです。


信心深い彼女は幼少より日々家事、お祈り、苦行へといそしみます。

ある日彼女がお祈りをしているとき、子供のキリストが現れ、こういったそうです。


「ロサよ、お前の愛を、全て私にささげておくれ」


その日より、全ての愛をキリストにささげることを決めました。


それからもしばしば彼女の前にキリストは現れますが、

いつも子供の姿で現れたそうです。

彼女がしばしば子供と一緒に絵に描かれているのは、そういう事情があるんですね。


rosa con nino jesusu



キリスト同様、彼女の人生も自己との戦いの連続でした。


自分に誰よりも厳しかった彼女は、色々な苦行を自らに課します。


子供の頃よりこっそりベッドには木材を入れ、枕には木屑を入れていたそうです。

いい加減そんな寝床に恐ろしさを感じたロサは、一度はそこに寝るのをやめますが、

子供のキリストが現れ、諭されたので、もとのように寝ました。

母親が気付いてやめさせてからは、ベッドに羊毛を入れたのですが、それは枕に使っていた日干し煉瓦や

丸太のように固く敷き詰められてあったのです。


そのほかにも…


トゲのついた冠をつけたり、

鉄のとげに覆われた十字架を胸のところに当てていたり、

自分に鞭打ちを貸課したり、

イエスの十字架の代わりに丸太をかついで歩いたり(おいおい)…。

できるだけキリストと同じ苦しみを味わう努力をしたそうです。


また、その美しい容姿ゆえ、男性の目を常にひきつけずに入られませんでした。

それならと、美しく長い金髪をばっさりと切って、顔が見えないようにベールで覆いました。


ある日良家のお坊ちゃんに結婚を迫られたことがあります。

その頃はちょうど父親が事業に失敗して、家が貧しいとき。

両親は大喜びしますが、ロサは


私の愛はイエス・キリストのためだけのもの


と、頑として断ります。

彼女の人生は多くの逸話にあふれています。

ある日彼女がどの修道会に属するべきか、キリストにお祈りして聞いて以来、

彼女の目の前に白い蝶と黒い蝶が現れるようになったそうです。

白いチュニカと黒いマント。

ドミニコ修道会の衣装そのものでした。


santo domingo



それから彼女はドミニコ会のサント・ドミンゴ教会に、毎日お祈りに通うようになります。


またある日、聖マリアに修道院に入って尼になるべきかお祈りして聞いてみたところ、

彼女は急に立てなくなり、兄弟を呼んで手伝ってもらったのですが、

それでも立てませんでした。

彼女は、神が修道院に入ることを反対しているのだと悟りました。

一般にはあまり知られていませんが、彼女は死ぬまで在俗だったのです。



さあ、もう一つの逸話。


ロサと呼ばれることを嫌った彼女が、どうして自分からロサと名乗るようになったのか。


…ある神父に懺悔したとき、ロサと呼ばれることが嫌であるということを打ち明けました。すると神父は


娘よ、汝の人生もイエスがいつくしんだバラのようなものではないかね


と答え、その言葉が彼女の心に残ります。

そしてその後聖体拝領の際、マリアに自らの魂を託すことを想像しているとふと彼女は

自分の魂が受け入れられたと感じ、そしてマリア(もう一人のバラ)にこう呼ばれるのを聞いたのです。


「Rosa de Santa Maria(聖マリアの薔薇よ…)」


教会から出て母親に出会った彼女は、


「今日から私のことは聖マリアの薔薇と呼ぶより他に呼び名がないわ」


と宣言するのです。

母親はきょとんとするばかりです。



彼女の日常は、常に世の中で最も貧しい者達のために捧げられていました。

先住民系や黒人系。乞食や、病人。

休むなく事彼らの世話に従事し、なおかつ、自分への苦行も忘れることがありませんでした。


彼女のその行動振りから、彼女のことを既に「聖ロサ」と呼ぶものが現れましたが、

おごりほど怖いものはないと考えた彼女は、

裏庭に小さな小屋を作り、そこにこもって毎日お祈りに従事します。


自らを痛めつける苦行や極度の断食は彼女の健康を蝕みます。


晩年を会計士のゴンザロ・デ・ラ・マサ夫婦のもとで過ごした彼女は

1617年8月24日、なんと31歳の若さでこの世を去ります。

体は既に半身不随の状態になっていたといいます。


苦しみのもとでも尚彼女はこう言い続けていました。


「神よ、もっと苦しみをください…。しかし、同じ分だけの愛をおあたえください」



…死後、彼女はちょっとした奇跡を起こします。


ローマ法皇クレメンテⅨが自分の部屋で「アメリカに聖女はいるのか」と言ったところ

その書斎に花が降り注いだそうです。薔薇かどうかは知りませんが。


そして以後彼は彼女を崇拝するようになり、

彼女に列福式を施し、聖地に礼拝堂を建てさせます。


…次の法皇クレメンテⅩは彼女のために列聖式を行い、聖人の一人として公式に認めました。

1671年4月21日のことです。



現在彼女はリマやペルーの守護聖人であるだけでなく、

アメリカ大陸全般やフィリピン諸島の守護聖人でもあります。

ペルー警察やペルー看護婦組合も護っているそうです。



毎年ペルーでは、今日8月30日は彼女のための祭日。


彼女が生まれ育ったAv.TacnaのSantuario de Santa Rosa de Limaや、

彼女が幼少期に数年過ごしたリマ県カンタ州のQuive町にたくさんの人が集まり

願い事を書いた紙を、乾いた井戸に放り込むのです。


pozo de santa rosa


願い事は病人を多く治癒したロサにちなんで、病気にまつわるものが多いとのことです。


また、ピンクと白のろうそくに火をつけ、その周りを円形に塩と米で囲みます。

願い事を書いた紙をその二つのろうそくで燃やし、七日間の間毎日三度アベ・マリアのお祈りを続け

その後聖ロサの行進に参加する、そういう習慣もあります。


las velas



…しかしね、彼女の人生はほんとに興味ぶかいです。

ここに書かれてるのはほんの一部なんで。

僕はキリスト教徒でもないし信心深いわけでもありませんが

すごい彼女の人生はドラマに満ちているんですね。


僕はどちらかというとそこに宗教性より更に強く、

もっと心理学的・精神病理学的な

何らかのトラウマに基づいた自己抑圧傾向を感じるのですが。

人格障害?

なんて思ったりもしましたが、それなら自分を差し置いて他人を助けるほどの余裕はないかもしれない。

複雑そうだ。



どうですか?

最初の冷たく見える写真が今では違和感なく感じませんか?



うーん、どうなんだろ。思いっきり俗人な僕には到底理解不能なのか。

人間として向上したいとはいつも思うけど、

そういう追い詰め方に僕は意味を読み取れない。

在俗であり続けたのも、多い誘惑に自分をさらし続けるためではないか。




また気が向いたら、「ロサ劇場」でもやるとしますか。







★あの人?

★生きる喜び

予期せぬトラブルに陥ったとき、どういう行動をとるかでその人の真価がわかるといいます。

炎上する飛行機の中で、まず一番最初に何を優先して考えたのか。

TANS事故機の中にいた三人の乗客・乗務員のお話です。



ペルー人男性William Zeaと結婚したのはアメリカの女性Monica Joy Glenn。

事故当時飛行機の中にいた外国人16人のうちの一人でした。


「彼は最高よ!」


病院に並んだ二つのベッド。

彼女は一時も愛する夫から離れたくありません。

彼女が比較的軽症で済んだのは、消防士の旦那が、常に身をていして彼女を守ってくれたからです。

こちら を見てもわかるように、ペルーの消防士は本当にボランティア精神あふれる

勇敢な戦士なのです。


ずっと彼はわたしを護ってくれたし、注意していてくれたわ。

 飛行機を出るときなんか自分の体を盾にしてくれたの。

 今はただわたし達が新たなる道を歩けるよう、回復できるのを待つのみね。

 疑う余地なくこの事故はわたしの心に深く刻まれたし、

 わたしの考え方を大きく変えた。

 この手の悲劇はいつも生きてる喜びについて考えさせてくれるし

 ウィリアムが私に抱いてる無限の愛についてもその機会を与えてくれた。

 彼はその愛を最高のやり方で私に見せてくれた」




ういう自己犠牲の精神というものは、長年の教育によってのみ培われるものでしょうか?

次の例は9歳の女の子です。



Rominita


娘の隣から片時も離れたくないのは彼女の父親のOttoです。父親だけどオットです。

やけどで腫れて開かないまぶたが痛々しいですが、その怪我は

彼女は燃え盛る飛行機の中、一歳半のいとこ、Juan Carlos Valleちゃんを

必死に救い出した証なのです。


2人はおじいちゃんおばあちゃんと旅をしていました。

残念ながらこの記事が出た時点で彼ら二人の名前は生存者リストに載っていません。

話せる状態ではないので詳しい事故の状況は聞けていませんが

記者が取材中、目をつぶったまま彼女がこういうのを聞きます。


かわいそうなおじいちゃん…」


じられた目の奥では、忌まわしい光景が繰り返されているかもしれません。

実際に事故を生き延びた人の中には、

惨状を思い出すのが怖くて、目を開けれない人が多くいるそうです。


勇敢ないとこに救いだされた一歳のホアン・カルロスちゃんは

大きくなってもはっきりとこの事故を覚えてないかもしれませんが

周りの人間からロミーナに命を救われたことを聞かされることでしょう。と、新聞に書いていました…。




Romy


さあ、最後は客室乗務員として確実に自分の役目を果たしてスッチーのロミーのお話です。


TANSの客室乗務員であり、ペルー空軍の曹長でもある彼女は、悲惨な事故の直後にもかかわらず

インタビューに対して笑顔で答えています。

彼女は、34人の乗客の命を救ったこの悲劇で一番のヒロインなのです。


ヒロイン?とーーーーんでもない!ぜーんぜんっそんなんじゃないから!

 ほんっと まちがってるって!(笑)」


彼女によって救われた乗客の中には二人の赤ちゃん、一組の老夫婦、数人の大人がいて

彼らは彼女によって担がれて、小さい飛行機の窓から外へと運び出されたのです。

しかし彼女は自分が犠牲を最小限に抑えたことを認めようとしません。


私たちが救われたのはね、神様のおかげ。

 こうやって私たちが生きているのは奇跡なの。

 とにかく私はこうやって元気。生まれ変わったみたいね。


 私はやるべきことをやっただけ。覚えているのはね

 飛行機が突然止まったのを感じたときにしゃがんだことね。

 空港の滑走路に着いたと思ったんだけど、そうじゃないって気付いて

 すぐに乗客に指示を出したわ。

 その時飛行機の中は精神病院のようだったわ。

 人はみんな打ちひしがれていた。

 そんな時二人の子供と一組の老夫婦を見たから、最初に彼らを外に出したわ。

 24人の乗客がパオラ・チュー(もう一人の客室乗務員)のあけたドアから出た。

 

 他の10人は、孤立していたの。一括して、説得したわ。

 『でなさい!』

 そう私が言ってから、彼らは飛行機の小さな窓から出て行ったの。

 みんな無事に出て行った。それには満足しているわ

 そしてそのあと… 飛行機は爆発したわ。

 私たちが飛行機の半分が燃えていることに気付いたときね。

 そして私はある紳士の携帯を借りて、空軍の非常レスキュー隊に電話をかけた」


この悲劇の後、彼女はもう空を飛ぶことに対して怖さはないのでしょうか。


 「ぜーんぜん。何が怖いっていうの。

  もう飛ぶ気満々よ。これは私の天職だから。私の好きな事。

  私は空軍の第八師団で働いていて、第二曹長なの。

  空軍の通信スペシャリストよ。そして午後は、TANSで働くの。

  私はこの年の一月からずっと飛び続けてきた。

  もうどれだけ飛んだかもおぼえてないほど。

  二週間後には退院して、普通に生活したい。何もなかったかのようにね


23歳という年齢にもかかわらず、どこまでも謙虚で、どこまでも自信にあふれた彼女。

34人の命を救ったという事実よりも、その言動に英雄たる要素があります。




生き残った人たち、残された人たち。


光が、見えれば。

★TANS事故まとめ

ある日の午後7時、リマ国際空港に着いたとき、国内線の出口の周りにたくさんのマスコミが。

「トレドでも出てくるんやろ。あほらし」と思っていました。


その日は、8月の23日でした。



リマ14時30分発プカルパ経由イキトス行きのタンス航空204便ボーイング737型機が

8月23日15時06分、アマゾン地帯のプカルパ空港からおよそ4km離れた場所に墜落しました。


120人乗りの飛行機に乗っていたのはちょうど100人。

92人の乗客のうちペルー人は84人、外国人16人。

そのうちの8人がTANSのパイロット及び客室乗務員です。

(…数字は新聞によって違うので大体で把握してください)


8月26日現在


死者・行方不明者42人、生存者は58人です。


墜落した飛行機は三つに割れ、前部・中部に乗っていた乗客・乗員に死者が多かったとのことです。



         saqueo




生き残った乗客の証言。



YURI SALAS VALENCIA(37)


「空港まで後10分、というパイロットの声を聞きました。

 空は真っ黒で、どんどん機体の揺れが激しくなっていきました。

 嵐が本当に強く、見た感じ飛行機は低空飛行を始めたようでした。

 それから数分してからだとおもいます。強い衝撃を感じ、光と炎を見ました。

 火が僕の周りをとり囲み、顔に炎が迫り、鉄くずが飛んできました。

 穴が一つできていて、そこから二人出て行きました。

 僕も脱出する努力をしましたよ。

 一瞬、静寂があたりを包みました。

 しかしすぐに、誰かが僕を呼んで、機体が爆発するから出ようというのを聞きました。

 飛行機から出た僕達は、全く進むことができませんでした。

 降りたところは沼地で、強い雨が降っていたんです」


German Cornejo Marcalupu(26)


「衝撃で僕の体は吹っ飛ばされましたが、シートベルトをしていたので元に戻りました。

 その瞬間、操縦室から巨大な火の玉が出てきて、通路を走っていったのです」



墜落の原因はまだ特定できていませんが、専門家の分析による仮説は色々あり


十分なガソリンを積んでいなかった。

 リマよりプカルパの方がガソリンがかなり安い。

 だからプカルパにつけるくらいのぎりぎりのガソリンしか積んでなくて、途中で切れたのではないかと。

 これにはTANS社は思いっきり否定しています。


折からの強い風雨、森林火事による煙でさらに濃くなった霧で視界が悪く、着陸に失敗した。

 そしてこういうときには自動操縦に頼るのが望ましいが、

 パイロットは自分の腕に頼って着陸しようとしたのではないか。


・パイロットは自分の腕に頼らず自動操縦で着陸しようとした

 しかし本来プカルパで自動操縦による着陸は禁止されています。

 自動操縦に対応できるだけの設備が、プカルパの空港にはないからです。

 だから自動操縦で失敗してしまったのではないかと。


・突風によるコントロール喪失→胴体着陸

 着陸に不利な天候を見て空港上空を旋回。その時既にかなり低い位置を飛んでいたが

 その時来た強い突風により、飛行機は下にたたきつけられるように押し下げられた。

 既に機体を上空に戻すことが不可能な状態になったため、胴体着陸をした。



TANS社はアマゾン地帯のほかの民間航空機が行かないところにも飛行機で人が移動できるようにと

1963年に設立された、ペルー空軍運営の、国立の航空会社です。

スッチーの友達によると、TANSのパイロットは自動操縦より自分の腕を頼る傾向が強いそうです。

僻地への飛行を独占しているため、競争会社がありません。



飛行機が墜落したときに原因を特定する大きな手がかりになるのは、

墜落30分前までの音声記録、速度、高度、方向などを記録しているブラックボックスです。

プラックといわれてますが実際はオレンジ色とのことです。

二つあるうちの一つが既に回収されているのですが、もう一つは見つかっていません。



なぜ?



墜落したのはアマゾン地帯の沼地部分です。

ばらばらになった機体はおよそ半径500mの範囲にわたって散乱し、

多くは沼地の中に沈んでしまいます。

そして大勢の人がなくなった悲劇の場所ですが、既にここでは警察による監視にもかかわらず

地元民による金目のものの略奪が始まっているのです。


国立銀行あてに運ばれていた200万ソルのお金のうちの142万ソルが回収されましたが

残りは燃えたか盗まれたのだろうと。

もちろん置き去りになった乗客の持ち物も略奪されます。

しかし持ち去られるのはそれだけでなく、ばらばらになった飛行機の機体の


シート、タイヤ、着陸装置、ドア…


剥ぎ取れるものは何でも持ち去り、くず鉄やなんかでお金にするのです。

たとえばアルミの板は1kgあたり5ソルから10ソルで買い取ってもらえるそうです。


地元の人たちにとっても痛ましい事故であるに変わりないのですが、


「生活には変えられない」


との理論が彼らに生い茂る低木をなぎ倒すなたを持たせ、現場に向かわせるのです。

そしてそんな人たちがそれが何かも知らずに、ブラックボックスを持ち去った可能性が高いと。


ローマ法王ベネディクトⅩⅥのお悔やみの言葉もとどいていますが、痛ましいことです。



しかしそんな中、生き残った乗客達はトラブルの中で実に団結したチームワークを見せ、

自分の命を顧みず他人の命を救います。


そんな美談を、明日の記事に書きますね。



ということで、つづく…